2008年7月30日水曜日

あかりのありかといのちのすみか展と悪夢


先日、「あかりのありかといのちのすみか展」を教えてもらったので、時間があるときを狙ってイタリア文化会館へ散歩してきました。

コイズミ照明コンペは過去の作品もいくつか見れて、当時おもしろいと思っていたものを再確認できた。もちろん、今年の出展作品も面白くて様々な視点から気づかされることばかりだ。

というのも、高校時代に舞台照明から照明に興味を持った人間としては、「あかり」はシーンや感情を表現したり、空間そのものを規定する一要素としてしか考えたことがなかったのだ。古い例を挙げれば、つかこうへいの熱海殺人事件の作品中では赤い照明は役者の感情が最高潮に達した時に使われる(と、昔々につかこうへい自身がワークショップで言っていた記憶がある)。しかし、当然のことだけど、「あかり」の用途はもっと広いのだ。
あるときには最も原始的なエネルギー源であるし、またあるときにはなにかを伝えるシグナルにもなる。
そして人と人を繋いだり、包み込むような媒介にも。

その夜、盲目の人の苦労を感じてみようと思い電気を点けず、ずっと目を閉じて風呂に入ってみた。
風呂の蓋を開き、浴槽へ浸かり、手探りでシャンプーや石鹸をとって、身体を洗う。
とてつもなく、ゆっくりと動くことしかできない。
難しいことばかりだし、危険だ。
目が見えなくても「あかり」を感じられるだろうか、とか考えてみようと思ったのだけれど、そんな余裕はないな。


関係はないのだけれど、最近の僕はrodyに追い掛けまわされる夢にうなされ目が醒めることが多い。
実際、rodyのどアップは恐怖なんだが、他に暗示的な何か意味でもあるんだろうか。フロイトやユングも読んでみたら面白そうだ。
そういえば、幼児用の玩具って恐怖の対象になり易いものばかりだ。

0 件のコメント: