2009年8月20日木曜日

ユメ+ヨル

おかげさまで24です。
下北沢スズナリ劇場で少年王者館「夢+夜」を観てきた。


(via:少年王者館公式

自分が高校1年の演劇部時代にBSで「パウダア」の放送を観て以来、「とにかくよくは分らないが、僕はこの劇団を自分の演劇の手本にしよう」と決めつけて毎日毎日ビデオを繰り返し観ていた。ストーリーや演技とか感情の表現だとかを色々言わずとも、舞台で総合的にできることをやりつくして埋め尽くしてイメージの洪水で世界の境界へ連れて行かれるような感じがずっと好きな劇団だ。
少年王者館のテーマについて「劇団発足以来、“ある奇妙な情熱-未だ知らざるもの、ずっと思い出せないでいるもの、そんな懐かしさに似たあるひとつの思い、その傾き-”をテーマに、役者と観客の各々の思いが絡まり、どこか懐かしく恐ろしいところへ連れ去られていく…、そんな舞台を意図している。-番外公演『少年ノ玉』(1987)公演時のビラより」とある。

今作では上記のベースを維持し続けながら、天野天街がどう変化してきたのかをつらつら考えながら観ていた。
年王者館の「夢+夜(ユメタスヨルと読む)」は夏目漱石の「夢十夜」の言葉遊び。天野天街さんの脚本は、言葉遊びと詩的操作で満ちている。そしてその演出は、大正的なレトロな世界観とは裏腹に、大道具や小道具を含め音響や映像機器の多用といったハイテクニックによって支えられている。これらのハイテク演出でもって、稲垣足穂のAV感覚的な少年少女、暗黒舞踏や寺山修二のアングラ、土着的な世界と野田秀樹ばりの言葉遊び、そしてカート・ヴォネガットの様な時間地震(タイムクエイク)が足しっ放しのままで90分の尺に凝縮されているのが天野天街さんの芝居の凄みだと僕は思う。
本作でも、天野天街的な言葉遊びのブレインストーミングが随所で見られる。「オシマイ-御姉妹-お終い」、「イタイ-痛い-居たい-遺体」、「ウツ-打つ-撃つ-鬱-うつ」、「ヘラ→今」、「カレイ-カレー-鰈-カレイ(ドスコープ)」等の過去の作品でも多用された言葉である。僕は少年王者館の本公演を4年ぶりくらいで観たが、過去の作品、例えば先にあげた「パウダア」など少年王者館、天野天街の作品は「死」、「宵」、「黄昏」といったイメージが主題となる事が多く「イタかった→居たかった」という意味での使用が多かった印象なのに対して、本作では「イタかった→痛かった」という身体的な意味での使用が多い印象が強かった。それは主人公が戦時中に男を打ち殺し、また自身も撃たれて死ぬというストーリーの為に、納得ではある。ただ過去の作品では宵の瞬間に「居たかった」という自身が不在であることを前にしての思いが訴えられていたのに対して、本作では痛みや苦しみの訴えへと具体性が増していて辛い気持ちになった。「パウダア」「それいゆ」等のセツナサよりもセツジツな痛みがある。
ところで、小ネタであるけれど、「それはヒラメじゃない」のネタの中で劇場中にカレーの香りが漂うといった演出はとても凄かった。嗅覚まで演出した芝居が今まであっただろうか。少なくとも戯曲にもDVDにも、映画にも表現できない劇場でしか味わえない瞬間だった。客だから当然客観的に観て感情移入するものであるという芝居の常識というか、縛りが解けて<僕自身が>主観的に客席に<イタ>ことを意識した。僕はずっとお芝居の世界にイタカッタのだ。
また、反復の演出も多用されている。天野天街は以前にえんげきぶっくのインタビューか何かで「時間をトコロテンみたいに捉えている」という趣旨の発言をしていたように思う。「時間トコロテン観」の詳細は忘れてしまったけれど、当時とても面白かったし、過剰な反復の中で生じる差異がストーリーとなったり、目の前で見る見る活舌が悪くなり、玉のような汗を散らし、戯曲や演出の文字のようにクールな人物から突然にリアルな人物へと接近してくる、否応なく演劇の持つ共時性を現わしてしまうことがとても演劇的だと思った。トコロテンを押し出すように、一つの塊から無数の細い未来が枝分かれに生じたり、トコロテンを筒に引き戻しても分かれた跡は残りながら新たな未来へと枝分かれるというような意味じゃなかったかと思う。役者が反復を生きることで差異を生じ、客席との時間にも差異を生み出し、またそこに過去の改編といった明確な目的が無いという点で、天野天街の反復はヴォネガットの回想の為の時間移動とも異なり、ドラえもんなどSF的な改編を目的とする時間移動とも異なって、観客との「見る-見られる」という関係性の中で、リアルな時間の中で虚構の時間変動(タイムクエイク)が起きている演劇独特の表現である。この過剰な反復(ワンフレーズの反復で時に10分以上掛かる)によって、異変→驚き→退屈の過程を経て何か劇的な瞬間へと昇華するのを観てきた。特に「パウダア」や件プロジェクト「真夜中の弥次さん喜多さん」において井村昂、杉浦胎児、水谷ノブ、寺十悟らがその瞬間をじわじわと体現したのを観た。
この時間変動に近い感覚は、先日の「おもいっきりDON!」の放送事故で私たちが感じる感情に近い。生放送が突然に停止し数秒間の異様な微反復のループに陥った時、私たちは突然に「見る-見られる」のインタラクティブと思っていた関係性から突き放されることに戸惑い、驚き、そしてじわじわと退屈する。またそのループから脱出したことに驚き、時間が取り戻されたことに安堵する。


「夢+夜」は満州や大戦モチーフとして「ユートピアの失敗」、「身体的苦痛」といった社会への不安や、「母殺し」と同時に「母萌え」を、大正浪漫的な世界観の中で表現している。それは「(鳩山-小沢)一郎」や「インフルエンザ陽性(スペイン風邪-新型ウィルス)」のネタがある点でも、過去とのダブりを仄めかしながら、反復であるかもしれないような現在を描いている。天野天街の新作は3年ぶりだという、久々の新作は只のノスタルジックに納まらない、彼や私たちがいま(なのか?反復なのか>)、生きている事の身体的、精神的な「苦痛」が漂っているように感じられた。
長々と意味もなく思いつきで書いたけれど、天野天街が感じているだろう「辛さ」にウツウツと帰路で考えていた。まさに夢を見たような体験だった。




入場待ちの時間に古書ビビビで、「BESTっス!(ゲッツ板谷)」、「勝手に生きろ!(チャールズ ブコウスキー)」、「スロー・ラーナー(トマス ピンチョン)」を購入。



2009年8月12日水曜日

無題


整理していたら見つけた写真。
もうちょっとわけの分らないことになってたら面白かった。

<追記>
こんなのもあった


ブルーシートの下が気になる。


ほんとに和田誠なんだろうか。

2009年8月1日土曜日

久保町アパート

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市街地住宅の図集を眺めていたら、どうも見覚えのある建物が。


僕と同じ高校で相鉄線を使用していた人は毎日バス停から見えていた筈で、何となく見覚えがあるのではないか。


公団初期の昭和34年に建設された市街地住宅である久保町アパートは、地上1,2階が日産の車置場、事務所として分譲され、2~5階が賃貸住宅となっている。


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[「日本住宅公団 市街地アパート」日本住宅公団、昭和34年]


建設当初の写真と比較してみても、サインが追加されている以外、殆ど外観は変化していないことが分かる。




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[「日本住宅公団 市街地アパート」日本住宅公団、昭和34年]


従前の日産自動車販売所。よく見ると、看板にはダットサンやオーチスの文字が。


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裏側はさすがに竣工から50年の歴史を感じさせる渋さがある。こちらは一階部分が車置場や倉庫となっている以外は、普通の板状住棟。4,5階は既に閉鎖されており、その他の2,3階の住宅でも居住している気配が希薄な様子。現在は日産の施設部分しか使用されていないのかもしれない。団地百景によると、日産に譲渡済みのよう。


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囲み配置となっていて、中央部分は車置場(メンテナンスサービス)の屋根が架けられ、採光が取られている。そのため、囲み配置といえど、このアパートには中庭といえる空間は無さそう。




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設計は公団関東支所計画部と山下寿郎設計事務所。事務所部分やファサードは山下事務所のデザインか。


名称:久保町アパート

階数:地下1、地上5階


建設年:昭和34年


設計:公団関東支所計画部、山下寿郎建築設計事務所